「指揮者」By.Nightingale

指揮者
ハレルヤ!Nightingaleです。
♪~θ(´∀`●)
神様は、御心をなすために、
創造なさった一人一人にその個性に合わせて
働きかけてくださり、投資してくださり、育ててくださいます。
私は「聖歌隊」という使命をいただいていますが、
この使命を通して主の御心を成すことをいつも願っています。
そんな聖歌隊に、3週間前から指揮者が立つようになりました!
(礼拝では、聖歌隊が教会全体を代表して特別に捧げる『特別讃美』のほか、礼拝の始まりを告げる「ヨホワヨ」、代表お祈りの後の「アーメン」など、礼拝中に何度か、聖歌隊による讃美が捧げられます)
私も何度か「ヨホワヨ」「アーメン」の指揮をさせていただいたことがあったのですが、
そこから学んだことがとても多かったです。
教会の牧会者が、「講壇に立つと一人一人の主に向かう姿勢がよく見える」とおっしゃいましたが、
私は、聖歌隊で指揮をすることを通してそれを感じることがありました。
私自身の足りなさがあったことは十分認めた上で、
指揮を振っているにも関わらず、
目をつぶって自己陶酔の中で捧げる人、
一見指揮に従っているようで、手元では自分で拍を撮りながら自分のリズムで捧げる人、
指揮を全く見ず、うつむきながら捧げる人。
歌ってない人(!!!!!)。←自信がなかったそうです。
最初はバラバラでした。
私を通して主を見ている人は、その人の中に主がいるから、見てすぐわかります。
主じゃなくて私を見ている人もすぐ分かります。目が合うと気まずいです(^^;)
私(指揮)すら見ていない人には心が痛いです。
また、私自身も、中心に立つ人は、絶対に揺らいではいけないということを学びました。
指揮が道を見失ったら、全体が道を見失うからです。
そして、(これは指揮に関わらず、聖歌隊全体に言えることですが)
前に立ち続ける人には誰よりも努力が必要なんだということを改めて感じました。
聖歌隊における指揮は、まるで鄭明析先生の御言葉のようです。
鄭明析先生の御言葉は、
今、私たちがどこにいて、
何を解決しなければならなくて、
それを解決するためにはどうしたらよいのか、
方向性と方法を示して下さいます。
<帆>をつけなさい。
その帆は「主の帆」だ。
「主の帆」をつける人は天の運に乗った人だ。
だから人生を楽に航海する。
(2015年1月27日明け方の箴言より)

全体を見て導いてくれる指揮者がいるから曲全体が生きるように、
進むべき道を示し、導いてくださる先生の御言葉に出会ったことが、
どれほど幸せなことでしょうか。
しかし、たとえ指揮者が立っていたとしても、
指揮は盛り上がっているのに、皆がついていけなかったり、
切るところや伸ばすところを、自分なりに処理をして指示に従えなかったり。
中心を一人ぼっちにさせてしまったりすることで、混沌となる場合もあります。
これは、御言葉の意味を正しく理解できずに実践できなかったり、
自分なりに解釈してしまったり、
御言葉に込められた心情を悟れなかったりすることに通じます。
指揮者は皆の中心になる存在ですから、誰でもできるものではありません。
まるで船の帆のように、指揮によって全体の方向が決まるからです。
だからこそ、指揮者という中心となる人、基準となる人がしっかり立った時には、
主に導かれ、主だけに没頭できる、絶対的な安心感と喜びがあります。
けれど、
更にもう一次元、
「それぞれ」の声が「ひとつ」の声になるためには、
私たち自身の、「指揮者に従う」、という条件が必要です。
例え指揮者が100%完全でも、
従う人がいなければ成り立たないように、
御言葉は100%完全でも、
私たちが行なえなければ成り立たないのです。
そこがもがきであり、
変化する過程であり、
自分自身がダイヤモンドに削られる時間でもあります。
讃美一曲を捧げる過程は、
まるで、神様と人間が歴史を成すようだと思います。

そして、
鄭明析先生も指揮をされますが、
先生の指揮は、天地万物も従うような、
エネルギーに満ちていて、美しく、楽しく、
ダイナミックで、自由で、
指揮自体が讃美していて、
いつまでも見ていたい、そのような指揮です。
もし機会がありましたら、
聖歌隊練習をのぞいて見てください(^^)


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