わたしは中学生のときにクリスチャンの友だちがいました。
彼女に礼拝に誘われて、行ったことがあります。
宗教に対して、
固定観念もなかったし、悪いものだという認識はありませんでした。
だから、礼拝とはいったいどういうものなんだろう?!
と思って行きました。
はっきり言ってしまうと、
退屈でした。
どんな説教だったのかも、まったく覚えていません。
覚えているのは、
その人たちは、なんか普通の人と違った感じがして、
「聖なるかんじ」はしましたが、自分とは「世界が違う人」という感じがしたのを覚えています。
もうひとつ覚えているのは、
友だちの家の車に乗せてもらったときに、
その友だちのお父さんとお母さんを質問攻めにしました。
なんで「永遠の生」を信じられるのか理解したくて、質問攻めにしました。
批判しようと思ったのではなくて、
理解したくて、聞きまくりました。
友だちも神様を信じたら、「死なない」とか、
非現実的すぎることを言うから、
アンビリーバボーで、
興味がわいたのです。
でも彼らから、何の答えも得られなくて、
結局根拠がわからないままでした。
むしろ、彼らがなんで礼拝に通っているのか不思議でたまりませんでした。
それで、中学生なりに出した答えはこうです。
「神様を信じればいいんでしょ。それなら、わたしもできる。
でも、礼拝に出たりするのは面倒だし嫌。
なんかしきたりが多そうなのも嫌。
普通にいまのまま生きて、とりあえず神様を信じて生きます。」
と考えました。。。
それから、何年も経って、
神様の導きによって、摂理に呼ばれました。
あまりにも、明快で痛快に、あのとき抱いたわたしの疑問に答えてくれる御言葉に魅了されました。
自分でも気づかないような、心の深いところにある渇きが満たされました。
「永遠の生」とは、この肉体のことではないということはもちろん、
「礼拝」や「しきたり」が問題なのではなくて、
「神様の愛する」かどうかが問題なんだということが、よくよく分かりました。
鄭明析牧師の御言葉でわたしが学んだのは、
「知識」や「徳のある言葉」ではなく、「人間を創造した、神様の心情」です。
神様の心が伝わってくることばは、どこを探しても他にないから、
彼の御言葉は偉大だと思います。