なんでも話せる友だち、いわゆる「親友」と呼ばれるような人はいますか?
と聞かれると、わたしは非常に困ります。
でも、わたしだけではなかったようで、
最近の高校生たちも、「友だち」という定義は曖昧のようです。
お弁当を一緒に食べる友だちはいるけど、
その人は果たして友だちなのか、と考えるからです。
わたしは、人に自分の悩みを打ち明けることは、幼いころからしませんでした。
というのも、
わかってもらおうと思っても、
結局あんまりわかってもらえないから、
失望するだけだからやめとこう、
と思っているタイプでした。
それで、話すのを諦めていました。
その極端な考えは良いことではないというのは、
いまは分かるようになったのですが…。
鄭明析牧師の御言葉で、
こんな話を聞いたことがあります。
鄭明析牧師があまりにも辛く、悲しいときに、
従う人たちなら分かってくれるだろうと思って、
打ち明けたそうです。
そしたら、
理解してくれるだろうと思った人が、
あまりに冷たい反応で、
心が折れそうになり、
「わたしはこんなに辛いのに、この人たちは全く理解してくれません。」
と神様に告げたそうです。
この祈りに神様がどう答えたかというと、
「彼らを責めるな。」
だった。
と聞いて、瞬間わたしは、
ああ愛の神様は責めることさえお許しにならないのか。
でもそう感じてしまうわけだから、きゅうくつだなぁ〜
とか勝手なことを思ったのですが、
続けて聞いた御言葉が、
「わたしがそのように創造したからだ。」
ということでした。
なるほど、と思いました。
そもそも人通しが、互いのこころを完全に理解し合うようには、
わたしたちはプログラミングされていないのか!
というのが、
わたしにとっては衝撃でした。
つまりそこに目的をおくことが間違っているわけか、と。
生きていく上で、人間どおしの意思疎通は絶対的に必要なわけで、
対話というのは、非常に重要ですが…。
こころを「完全に」理解しようというのは、おこがましい話なのか!と目が開かれました。
鄭明析牧師は、
人間は神様とこころを通わせ、理解し合い、愛し合うように創造されている
とおっしゃいました。
そのように生きてこそ、甲斐があって、幸せでどれほどいいのか、
やってみた人だけがわかる、と。
まず、神様との愛を完全に取り戻したとき、
人間同士の愛も完全に成せる、いいました。
たとえメディアのニュースをかいさなくても、
周りを見渡せば、愛が冷えきった人々をすぐそばで見れちゃう世の中です。
愛がどうだ、こうだ、人がどうだ、こうだ言う前に、
人間の創造された秘密を、
知っている人から、まず学ばないと、
とつくづく思う今日このごろです。