みなさんは、尊敬する「学校の先生」がいますか??
わたしは冷めている学生だったかもしれません。。。
というのも「いい先生っていないものだなぁ」と小学生から思っていました。
あ、「学校の先生」を否定したいわけでは決してないんです。。。
裏を返すと、わたしは「いい先生」に出会うことを願っていました。
わたしが小学3年生のとき。
先生に提出する日記帳にこう書きました。
「今日は雨が降りました。でも水不足にはならないからうれしいな。」
そのころ水不足のニュースをテレビで報道されているのを見てそう書いたのだったと思います。
すると、その日の掃除の時間に先生に呼び出されました。
何事かとおもったら、
「雨が振ったら、普通は悲しいと思うでしょ。でもあなたはうれしいと書いていたから。。。」
と心配されました。
わたしが病んでいるのではないかと思われたようです。
小学生ながら、返す言葉を失いました。
「元気です」ということをできるかぎりアピールして終わりました。
中学のときは、
わたしのことを認めてくれる先生に出会いましたが、げんなりする場面に遭遇したことがあって、
ああやっぱり先生だって人間だな、と思いました。
「お菓子を学校にもってくるな」と全体のルールとして決まっていましたが、
クラスのいわゆるリーダー格の女の子がお菓子を出して、
「先生、食べるー?!」という言葉にのっかってふざける先生の姿を
目にしながら、一気に何かが冷めていきました。
高校のときは、
自分の気分で、生徒にあたる先生。。。
「朝の会」の時間、教室に向かってコツコツと足音が響くと緊張がはしりました。
教室の扉を開けて入ってきた先生の表情を見て、
「ああ、今日は災難」
「ああ、今日は平和に過ごせるだろう」
と瞬時に判断できる能力が身に付きました。
とにかくわたしの場合は学生のときに
「いい先生」にことごとく出会えませんでした。
大学では「わたしの問題を話したら、なんでも解決してくれるマスターに出会いたい」と思うようになりました。
そんなマスターが出てくる小説を読んだからだったと思います。
バーの前を通り過ぎるとき、どきどきしました。
そんな出会いがあるはずもなく、大学を卒業しようとするとき、
わたしは「聖書」に出会いました。
鄭明析牧師の聖書の解き明かしの御言葉は、
だれかの言葉や状況環境に左右されない真理そのもので、
わたしにとって「問題を話したら、なんでも解決してくれるマスター」そのものでした。
「聖書」といったら世界のベストセラーでありながら、
読んだこともなく、それまで日本人特有のいわゆる「無宗教」だったわたしが、
「神様」の存在を知るようになりました。
自転車に乗って家に帰る道、
ふと空を見上げたとき、無意識に涙が流れました。
わたしが「義人の生」という讃美のメロディを聞いたとき、
出会いたかったものに会った瞬間が、あのときだったんだと、
後になって、知るようになりました。
「義人の生」
主は今日も義人たち探そうと
ひたすら地上ばかり見下ろしてる
首が痛いのか両手で 頬杖ついて
海辺の砂のように多い人
空の星のように多い人々
その中で主求め真理求める
義人はどこにいるかと
※
主は今日も頬杖ついて
私を眺めている
すると義人は目を上げて
天を仰ぐと
主と目と目が合いました
主ははっとして
義人は思わず熱い涙を流します
※Repeat
義人は思わず熱い涙を流します