中学生のとき、「尊敬する人はだれですか?」という問いのあるプリントを配られました。
わたしはそのとき、「尊敬する人」が存在していたわけではなかったですが、
あえて「尊敬する人」を探してみたら、
ぱっと思いついたのが、「ガリレオ・ガリレイ」でした。
中学生の知識でも、
彼が「地動説」を唱えた人で、それを理由に裁判にかけられ、「有罪」とされた話を知っていました。
「それでも地球は回っている」という言葉も心に残っていました。
「尊敬する人はだれですか?」の欄に続けて、
「なぜですか?」という欄があったので、
そこには、
「自分が正しいと思ったことを、だれに反対されても最後まで曲げなかったから」
とかきました。
いま思えば、
ガリレオが研究の中でみつけたのは、
神様の運行なさる法則であり、「真理」だったんだとわかりました。
それは、「自分の意思」ではないから、
あえて言うなら、
「曲げなかった」のではなくて、「曲げることができなかった」のだな、と。
しかし、
ガリレオの理論は「異端」として有罪になり、受けた刑は。。。
・自宅への帰宅は認められず、その後一生、邸宅からの外出禁止。
・すべての役職は判決と同時に剥奪。
・ガリレオ署『天文対話』は禁書目録に載せられ、1822年まで撤回されず。
・死後も名誉は回復されないまま。カトリック教徒として葬ることも許されない。
という目にあったそうです。(ウィキペデア情報)
こういったような刑に処したのは、
当時「神様を信じている人」であることは、間違いないです。
1992年、ガリレオ死後から350年の時を経て、
彼が正しかったことが認められました。
あえて、だれかがこの間違った裁判について「正式に」謝罪しなくとも、
現代を生きるわたしたちの「常識」が彼を判断するなら、
彼が間違っているなんて、小学生でも言いません。
いまは「地動説」が「当たり前」になりました。
「異端」とは何か。。。。
教理が違うと「異端」?
制度が違うと「異端」?
鄭明析牧師は、こう言います。
「知らないこと」が「異端」だ。
真理を知らないことが、「異端」だと、ひとことでおっしゃいました。
「理解ができないから」、
「自分とちがうから」、
という理由で批判したら、大きな間違いを犯すことを歴史が証明しています。
そして彼は、
科学は、すべての機能を搭載してなんの不自由もない、高性能な豪華客船がある。
宗教は、事細かな行き先まで把握できる綿密な地図がある。
この2つは、1つだけで存在するならなんの役にも立たないとおっしゃいました。
わたしは、「日よ止まれ」(ヨシュア記10章12−14)
という聖書の解き明かしを聞いたとき、
見事に、宗教と科学がひとつになった「真理」をみました。
わたしが、
この2つを1つにする力ある理論に、
「当たり前」になるよりもっと早く出会えていることに、心から感謝します。