フォーカスの当て方の問題 by nagano

夜勤ではいつも極限☆naganoです( ^ω^ )
お久しぶりです。最近バタバタしていてすっかりごぶさたでした。
深夜勤務というのがあることは以前記事でご紹介したと思いますが、本当に極限です。
いつも何か試されているような、限界を超えるんだぁああ!!( *`ω´)と言われているような、そんな気がしてなりません。
神様からのメッセージなのか?それなら頑張ろうではないか。
そんな中、ある患者さんとのやりとりで思ったことを今日は書こうかと思います。
脳梗塞はみんなご存知ですか?
脳の血管が詰まってしまって、血液が滞ってしまうことによって、脳の細胞が死んでしまう、という病気です。
脳はたくさんの神経が通っていて、様々な働きをするので、詰まった血管の場所によって、出てくる症状もかわってくるんですが。
大体、麻痺がメジャーです。
発症から24時間以内が症状の悪くなるピークで、特に発症から3時間以内に治療をすることがベスト、と言われています。
早期発見、早期治療が原則で、遅れてしまうと麻痺がかなり重くなってしまい、その後の生活ががらりと変わってしましますし、生命の危機にさらされます。
来た時はまだそんなに麻痺は進んでなかったけど、徐々に麻痺が進行するケースも少なくなく、動いていた片方の手足がほぼ完全に動かなくなってしまう人も多いです。
そんな患者さんの一人が、朝、目が覚めた時に、私の顔を見て一言
「あ、起きちゃったんだ。もう目が覚めなければいいのにって思ってたのに」
顔は笑顔でしたが、衝撃的な一言でした。
胸にドスンときました。
詳細は聞きませんでしたが、麻痺が進行したことで「もうかつての健康な生活に戻れない」という絶望から、現実から逃げたくてでた一言だったかもしれません。
ある日、自分の手足が動かなくなったら。
誰かの手を借りないと生きられなくなってしまったら。
人生があっという間に絶望になるでしょう。
落胆するしかなくて、無気力になるかもしれません。
『肉体』だけを見たら、です。
確かに、肉体が動かないことは絶望です。無気力になるしかないし、死にたくなるかもしれません。
でも、それだけでは悲しいです。
まだ生きているのに。
しゃべれるし。
ご飯もたべれるのに。
考えることができるのに。
神様がみる人間の人生のフォーカスというのは、あくまで『霊』なんです。
聖書にも書かれていますが『霊』の話がたくさん書かれているし、鄭明析牧師は「肉体の美は一瞬だけど、作った霊の美は永遠だ」とおっしゃっていました。
生きている、ということは本当にすごいことです。
やろうと決心して、頑張ればなんでもできるんです。
でも、私たちは肉体の限界とか肉体の生活とか、目先の問題や不安、不満がとても多くて、自分の『可能性』を知らないで生きているから、すぐに挫折して落胆してしまいます。
鄭明析牧師は「感謝と喜びがないからだ」とおっしゃっていました。
だからいつだって寂しくて、不安で、不満をいうんだ、と。
手足が動かないかもしれない。でもそれだけで人生は終わりなのか?
神様の考えはその程度ではないのではないか?
手足が動かない?でも考える頭があって、耳があって、目があるなら、み言葉を聞いて変化をしていくことはできるんじゃないのか?
そうしたら、手足が動かないデメリットを覆すくらいの『最高の可能性』が見えてくるんじゃないのか?
生きているからできること。
それは自分の考えでは全く及ばない、神様の考えがなければ手に入らない答えです。
そういう患者さんに接するとき、本当に悩みます。
どうしたら神様のおっしゃる『可能性』を引き出してあげれるのか。
どうしたら『心』が生きるようにしてあげることができるのか。
ずっと課題です。
だけど、きっと神様が答えを下さると信じています。
信じてアクションを起こしたときに、神様は必ず最高のものを下さる、と先生がおっしゃっていたからです。
だからこそ、私はこの仕事を続けることができるのだと思います。本当に感謝ですね( ^ω^ )
nagano


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