
ロードバイクが趣味の父と、
一緒にやりたくて買ったものの、
玄関の置物になっていました。笑
運動しなさいと御言葉でもおっしゃるので、
今日は神様とデートの日にしよう!
と思って休日に約40kmを走ってみました。
往復で4時間もかかりました…
摂理のロードバイク乗りが居ても面白いなあ。
カメラをリュックに詰めて途中で写真を撮る。
おしゃれなカフェをみつけたら入ってみるとか。
神様とお話ししながらの外出は楽しい。
摂理に来るまでのわたしはというと、
看護師の仕事を始めたけれど、
仕事と休日を繰り返す生活。
休日に予定があまりなかったので、
これから何十年と続いていく人生に、
絶望を感じていました。
休日は家にこもり、
継続できる趣味ももっておらず。
しかも自尊心がものすごく低い。
たとえば電車に乗った時に他の乗客が怖くて、
(実際誰も私のことは見ていないとは思う)
座席が空いていても座れないような。
外出しようと考えるけど、
だんだんと他人の目が気になってきて、
結局出られないこともありました。
家事をして散歩をして外に出られたら、
近くの温泉とショッピングモールに。
老後の生活かい!
と突っ込みたくなる過ごし方でした。
世界がすごく狭いのに広げようともせず、
ただただ自分に自信がなくて。
自分の価値が分からなかったし、
母親からも愛されている感覚がなかった。
人の目が気になって、
何か言われるだけで深く傷ついて、
落ち込んで本当に死にたいと思っていました。
自分は普通の人間ではなく失敗作の人間だと。
本気で、考えていました。
考えの病気でした。
体を傷つけなかっただけで、
心を何度も自分で刺して、
ぐちゃぐちゃに傷つけてきました。
カウンセリングに通おうとしましたが、
行こうとすると調子が戻って、
不思議と行く機会を逃しました。
自分はとても弱いと思っていたし、
居なくてもいい存在だと確信していた。
自分の価値が分からないから、
自分に投資しようとも全く思えなかった。
こんなこと書くと、
「やっぱり宗教って弱い人のものなんだ。」
って思われるのかもしれない。
でも何にも持っていないわたしは唯一、
お金や物質や人からの愛では補えない、
とてつもない虚しさを持っていました。
ぐちゃぐちゃになった心の片隅で、
自分の価値はこんなものではないはず、
とも思っていました。
自殺したいくらい限界だった時、
友人を通して聖書のを勧めてもらいました。
自己啓発本を何冊読んでも変わらない私が、
唯一触ったことがなかった本。
もうこれしかない。
という藁にも縋る思いでした。
「信じなさい!さすれば救われるであろう!」
とか、強引で盲目的に信じさせたりとか、
ツボを買わされるようなものでは全くなく、
ふつーにつじつまが合うような、
ああ、それなら今でもありうることだな、
とちゃんと納得できるすっきりとした内容で。
むしろ、なるほど!と思うことの連続。
御言葉ではいつも、
「やってみて自分で確認しなさい」とか
「悟れるように祈ってみなさい」と言われます。
御言葉を聞いたら、
生活の中で出来そうなことに当てはめて、
実際に自分がやってみることで、
結果的に自分の考えや行動に変化が現れる。
なんらファンタジーな世界ではなかった。
むしろものすごく普通なんじゃないか?
逆に御言葉を聞いても、
なにもやらなければ変化しない。
普通だ。
おいしい食べ物も、
実際に食べてこそ味を感じられる。
御言葉を学ぶことで、
少しずつ自分が回復しています。
自虐的な考えが少し改善されるだけでも、
ほんとうに生きやすいなあと思います。
やってみたいことがたくさん。
直したい自分の考えがまだたくさん。
看護師としても、
患者さんのお役に立てるよう成長したい。
